武田信玄
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【キャスト】

中井貴一/平 幹二朗/若尾文子/紺野美沙子/大地真央/南野陽子/池上季実子/ 菅原文太/村上弘明/西田敏行/柴田恭兵/宍戸 錠/中村勘九郎/杉 良太郎

【スタッフ】
原作:新田次郎/脚本:田向正健(「信長」「徳川慶喜」)/音楽:山本直純/制作:村上 慧/ 演出:大森青児、秋山茂樹、重光亨彦、布施 実、一井久司、吉川幸司

●DVD 武田信玄 完全版 第一巻

第一回「父と子」

武田家は甲斐源氏といい、源氏の血筋を引いた名門であった。天文5年(1536)、武田信虎の嫡男、晴信(後の信玄)は、信濃国・佐久海ノ口攻めで初陣。夜襲を決行し初陣を飾った。しかし、父・信虎は激しく罵倒。父と子の確執は、晴信の正室を迎える際にも表立つ。その頃、今川で家督争いの謀反が起きていた。

第二回「決意の時」

晴信を取り囲んだ倉科一党の三郎左衛門は、「新しき世をおつくりくださいませ」と迫った。館に戻った晴信は、わざと廃嫡の言葉を父に言わせ、自ら家督の座を棄てようとした。その夜、信虎は酒に溺れ、晴信を「小心者よ」と嘲笑。遂には晴信の背後から刀を振り下ろした。晴信は、父・信虎の追放を、一方、信虎も晴信●居を画策。両者は、駿河の今川義元に密書を送った。父と子の争いは、最後の時を迎えようとしていた。

第三回「別れ」

今川義元は、信虎を預かることを領知したと晴信に連絡し、そのまま駿河の間者として晴信に仕えるように命じた。そして、別の家臣に晴信連行を命じる。父親追放に失敗した晴信が逆に追放される筋書きであった。晴信は、その手を見抜き利用した。連行に現われた今川使者に、原虎胤が疾風の如く斬り倒し、板垣信方が「お約束どおり、武田信虎殿をお引き渡し申す」と今川の兵に告げた。その瞬間に父・信虎から、全てが消えた…。

第四回「運命の出会い」

甲斐国主の政権交代に母の大井夫人は仏門に帰依した。晴信は新しき甲斐をつくると宣言すると、重臣を集め、新しき国造りに向けて改革に着手するよう命じた。武田の変革に乗じて諏訪勢が攻め入るが、晴信は深追いせず国の整備を大事とした。そんな時、館に人質となっていた諏訪頼重の娘、湖衣姫に対面し、強い衝撃を覚える。初恋の村娘・おここに瓜二つであったのだ。

第五回「湖水伝説」

三条の方が次男を生んだ。嫡男・太郎の傅役を飯富虎昌に託した晴信は、甲斐の国が見渡せる山の上で太郎に湖水伝説を語りかけた。その頃、勢力の増強を目論む諏訪頼重が隣国の小笠原、村上勢と同盟を結ぼうとしていた。いまこそ諏訪攻めの時だと判断した晴信は、突然の出陣を命令。この戦いの狙いは2つ。豪族たちを束ねる甲斐を一つにすることと、湖衣姫に会うことであった。

第六回「諏訪攻め」

思いがけない諏訪出陣の命令であったが、すでに万全の準備が整っていた。頼継は、諏訪の上原城へ2千の軍勢を向け、再起の機会を狙っていた下諏訪の金刺堯存も動いた。三方を囲まれ、桑原城へ落ちのびた頼重へ、晴信は和睦の使者を送った。これに頼継、堯存は反発するが、晴信は和睦を断行。武田軍は一兵も失わず諏訪攻略に成功する。

第七回「風林火山」

再び高遠頼継が上原城を占拠した。この機に、晴信の妹・禰々が生んだ亡き頼重の嫡男・寅王を旗印として擁立すれば、頼継を討つ名目も立ち、諏訪の衆も納得する。晴信が即座の出陣を控えたのは、分家である高遠の振る舞いに不満が噴出した所へ寅王を先頭に諏訪入りする狙いであった。そして、甲斐のために戦う旗印が欲しいと提案。合議の結果、旗印は孫子の軍争より「風林火山」に決まった。

第八回「湖衣姫」

自害を覚悟した湖衣姫は、静かに手を合わせ、侍女が懐剣を手にした。そこに山本勘助が止めに入る。天文11年(1542)12月、甲斐盆地に雪が舞い降りる名嘉、湖衣姫との祝言が執り行なわれ、近隣諸国の豪族たちが祝いの拝謁に訪れた。その中の一人、真田幸隆は、晴信が囲碁に勝てば真田の領地を祝いとして進呈しようと勝負を願い出た。不信を感じた重臣・馬場信春は即刻成敗しようと不穏な動きを見せる。

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第九回「女のいくさ」

 

八重はおここと瓜二つの湖衣姫に「怨霊!」と、狂ったように背を叩いた。屈辱を受けた湖衣姫は、三条の方から晴信を奪うことを決意する。その頃、晴信と幸隆との囲碁勝負が行なわれ、わざと負けを認めた幸隆は「真田の庄を救うためだ」と家臣に加わった。天文12年(1543)初春、妹の禰々が自害。三条の方の湖衣姫への嫉妬は深まっていた。

 

第十回「国造り」

 

2年前に旅立った今井兵部が金山衆を連れて戻って来た。甲斐には豊富な金山があり、晴信は金山開拓に着手。新しい国造りを告げ、北へ北へと勢力の拡大を図った。さらに、山本勘助に鉄砲の入手を命じ、国造りのもととなる法「甲州法度」づくりにも勤しんだ。天文15年(1546)、湖衣姫の四郎が誕生。翌年、晴信は志賀城を攻め、小笠原はじめ城兵すべての首をはねた。晴信の心に鬼が宿った。

 

第十一回「越後の虎」

 

天文17年(1548)2月、信濃全土の平定を急ぐ晴信は、上田原へ陣を進めた。陣場奉行・原昌俊の意見を無視し、総攻撃を命令するが、上田原の地の利を熟知する村上勢の思う壷となる。信方の騎馬勢は、村上勢の挟み撃ちにあい、信方は絶命。四方の虎泰も討ち死にし、晴信ははじめて敗北の辛さを知る。その頃、越後の長尾景虎は、兄の晴景を亡ぼし、越後守護代になった。この景虎こそ、後に宿敵となる上杉謙信であった。

 

第十二回「海の北条」

 

四郎が重い病にかかる。源助と石和甚三郎は、八重が呼び寄せた修験者による呪いの祈祷「調伏護摩」が原因ではと疑り、修験者を斬り捨てた。この一件で、晴信は湖衣姫を諏訪に移した。その頃、長尾景虎は、関東管領・上杉憲政を追い出し、天下の秩序を乱す北条氏康に天罰を加える決意をする。一方、氏康は天下を思い、駿河の今川義元は、時のすう勢を見守っていた。そんな義元の京への道には、織田信長がいた。そして遂に景虎が動いた。

 

第十三回「川中島への道」

 

次男・二郎が麻疹にかかり失明してしまう。三条の方は、晴信の心がますます遠のくと悲しんだ。一方、諏訪で晴信に再会した湖衣姫は、早く戦いを終え三条の方のもとへ戻ってあげて欲しいと心から願ったが、平原城攻めは長引いた。真田幸隆の策略で平原の妻子を人質として捕え、ようやく城は陥落する。村上義清との決戦を前に、晴信は甲斐に戻り、川中島が善光寺平にあると知り、あここの墓標に「まもなく故郷の川中島に連れてまいる」と告げる。

 

第十四回「尾張の異端児」

 

今川義元の正室・於豊が死去。晴信は信濃出陣を見送り、今川の動きを見守った。一方、義元は甲斐攻めを策略するが、尾張の織田勢に手を焼いていた。そんな中、甲斐を豪雨が襲い、二郎が釜無川の決壊を察知。晴信は、信濃の守護小笠原の林城攻めに出陣。乾城を落としたその夜、勘助が持ち帰った鉄砲20丁を一斉に撃ち鳴らし、松明を掲げ、勝どきを上げた。小笠原は城を撤退する。

 

第十五回「母と子」

 

上原城の晴信は、北信濃の村上義清を討つための会議を重ねた。そして、甲府から諏訪まで軍勢が一気に駆け抜けられる、棒の如く真直ぐな新しい道をつくることになる。甲府では、家督を嫡男・太郎に継がそうとする動きがあった。また、太郎と今川家息女との縁組の話が、晴信の知らぬところで進んでいた。甲府に戻った晴信は、三条らの勝手な振る舞いを戒めるが、太郎は激しく反発した。それは、若き頃の晴信と父の確執を再現するかのようであった。

 

第十六回「信濃征服」

 

天文22年(1553)1月、越後の情勢を探っていた山本勘助は、長尾景虎の人物像、村上義清が景虎に助けを求めていることを晴信に戻り伝えた。一方、景虎は義清から「晴信は悪逆無道な人物」と聞かされる。しかし同席した関東管領・上杉憲政は「理によって動く手強い男」と語った。

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第十七回「虎との出会い」


天文22年(1553)善光寺平に越後の兵6千が追っていた。越後の景虎の力量を知るため、晴信はじっと敵の動きを見守っていた。景虎は翌朝、葛尾城に一斉攻撃をかけ葛尾城は陥落。これを見た晴信は静かに兵を引く。甲府では八重が飯富虎昌との密会を繰り返していた。そこには、家督を狙う八重の野望が隠されていた。そして北信濃の敵に動きがあったと知らせる白いのろしが上がった。村上義清を討つため、晴信は北に向かった。

 

第十八回「さらば湖衣姫」


湖衣姫は一人静かにこの世を去った。景虎との戦いに決着をつけぬまま帰還する。その後諏訪では四郎が刺客に命を狙われていた。四郎の声が禅寺で過ごす二郎の耳に届いた。二郎は「四郎が助けを待っている」と伝えた。晴信は二郎の不思議な力を信じ、諏訪へ馬を走らせた。四郎を連れ戻す途中、湖に湖衣姫の姿が…晴信は別れを告げるために、諏訪に呼び寄せたのだと思った。その頃、今川と北条との戦が始まり、今川から加勢を願う書状が届く。

 

第十九回「三国同盟」


天文23年(1554)春。晴信は、嫡男・太郎の名を義信と改めさせ、今川の加勢に弟・信繁を総大将として送った。そこには「北条への敵意はない」という無言のメッセージが込められていた。一方、勅命を取り付けた景虎は、北条・武田に天罰を加える絶好の機会を得るが、国内の紛争で出陣できずにいた。和睦を探る晴信は三国の重臣による合議を開かせた。結果、三国の間に新たな縁を結ぶことで決着。それぞれが胸に野望を抱き三国同盟は結ばれた。

 

第二十回「二百日の対陣」


北条高広が景虎に謀反を起こした。武田も善光寺平で動きを見せた。これを武田の攻撃を読んだ景虎は出陣の仕度を整えた。しかし、武田勢は動かず、北条と長尾勢の戦いとなり、景虎は高広の謀反を鎮めるのに2か月を費やした。天文24年(1555)3月、晴信の軍勢は、川中島に着く頃は1万余となっていた。一方、景虎軍も奥信濃の豪族たちを加え、総勢1万になった。この戦いは川中島を挟んで睨み合うこと2百日。遂には、今川義元などの仲介で、双方が軍勢を引いた。

 

第二十一回「景虎失踪」


長尾景虎の旗印は「毘」の一文字。毘沙門天は、あらゆる悪に打ち勝つ守護神であり、北の方角にある全ての物の守り神である。北の越後の国主として、自らを毘沙門天の生まれ変わりと信じる景虎にとって「毘」は、ゆるぎない正義の旗印だった。越後に接する奥信濃を残すのみとなった晴信は、豪族同士の領知争いが続く越後の乱れに油を注ぐ情報戦を展開した。武田軍は伊那攻めを決行し、川中島に出る道の雨飾城も攻め落とした。それは、景虎を激ミさせることになる。

 

第二十二回「奸風発迷」


晴信のもとへ足利将軍の使者が訪れた。奥信濃を攻めぬように、越後から将軍家に訴えがあった。しかし使者には「信濃守護職を認めねば、将軍家のご意向には添えぬ」と伝えた。一方、将軍の座を狙う今川義元は、今日へ上るうえで邪魔となる尾張の織田信長を潰す策略を練っていた。ある日、信長からの使者が「同盟を結びたい」と晴信に伝えてきた。晴信は奸風発迷という。それは「今川に背く気持ちはあるが迷っている」という晴信の心を信長に伝える言葉であった。

 

第二十三回「信虎変身」


織田信長が都へ向かった。足利将軍の衰退を読んだ今川義元は、天下を治める準備に入った。景虎も関東管領職を受け継ぐため上洛の途についた。駿河の信虎は、今こそ晴信を上洛させるべきだと決意。しかし晴信は、動こうとはしなかった。釜無川の治水工事を終え、善光寺の本尊を甲府に移した晴信は、永禄2年(1559)、出家して信玄を名乗り信濃守護職となった。それから1年後、信玄は勘助に「信長と力を合わせ、義元の首、必ず討ち取れ」と密命を下す。

 

第二十四回「義元討死」


今川の軍勢が駿府から京へ向かった。勘助の軍勢も合流、義元は、尾張・杳掛城に入った。織田信長の手勢は、わずかに2千。2万5千の大軍を誇る義元は、京までの道筋に敵などいないと高を括っていた。しかし、山本勘助によって、今川勢の動きは信長に筒抜けであった。朝から雨が降り続く中、桶狭間が決戦の地となった。義元は、雨宿りのため狭間にある農家に本陣を張った。そのすきを突いて、織田勢が一気に攻め込んできた。

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第二十五回「悲劇の発端」


駿府城では、今川家嫡男・氏真が家督を継ぎ国主の座に就いた。甲斐の武田館では、勘助が信玄からの恩賞を断った。勘助の心には義元を死に追いやった虚しさが満ちあふれていた。一方、織田信長は駿河を攻め滅ぼしたわけではないと、天下を見つめていた。長尾景虎も、川中島の海津城が頑強な要塞に改築されたことを知り、信玄の動きに目を光らせた。一触即発の危機をはらんだ緊迫の時が静かに流れはじめていた。

 

第二十六回「氏康と景虎」


永禄3年(1560)、遂に景虎が関東管領の名のもと関東制圧に動いた。小田原城では氏康が城を構え強固にする作業を急いでいた。信玄は景虎を越後に釘づけにし、信濃・佐久に陣を向けた。3月に入り、景虎は小田原城を取り囲んだ。篭城の準備を整えた氏康は、秋に国を出た景虎の軍勢は長期戦は無理と睨んでいた。その後、景虎は正式に関東管領となり、上杉と養子縁組。法号を謙信とし、信濃へ兵を向けた。信玄は、今こそ戦いに決着をつける時と覚悟を決める。

 

第二十七回「川中島血戦(一)」


信玄が甲府を発った頃、上杉政虎は1万3千の軍勢を率いて横山城に入った。一方、茶臼山に陣を構えた信玄は、越後勢の動きを見て海津城に入った。ある夜、海津城から立ち昇る夕餉の煙を見た政虎は、動きがあると察知。信玄は挟み撃ちの作戦に踏切った。妻女山の後方から上杉軍を燻り出し、八幡原で撃つという、川中島の霧を利用する戦法だ。しかし政虎はそれを見破り、本陣に篝火を残し、本隊を妻女山から下ろす。闇にまみれて両軍が動いた。

 

第二十八回「川中島血戦(二)」


永禄4年(1561)9月10日未明、高坂、飯富らの軍勢は妻女山の後方に周り、信玄は八幡原に本陣を張った。一方、政虎は本隊をすばやく八幡原に向けた。その動きを知った勘助は仁王立ちして敵の追っ手を防ぎ、この世を去った。政虎の優勢は続き、軍勢が武田本陣に攻め寄った時、後方の武田軍が妻女山の守りを突破して駆けつけた。遂に信玄は総攻撃を全軍に号令、形勢は逆転する。政虎は無念の思いで全軍を北の善光寺に向かわせた。

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第二十九回「勝利と敗北」


政宗は、一揆を完全鎮圧するが、大崎、葛西への国替えを命じられる。家康は、新しい領地は、東には海が開け、西には豊かな金山がある。富は海からも山からも無尽蔵だ。決して左遷ではない、と政宗を諭して、岩手沢城を居城とするように勧めた。

 

第三十回「義信事件(一)」


文禄元年(1592)、政宗は朝鮮出陣の命を受け、軍勢を率いて上洛。九州勢から朝鮮遠征は始まった。政宗は、三千の兵を三万に見せようと、伊達勢の軍装を飾り立てた。その絢爛華麗ないでたちに、出陣を見送る町衆たちは「これぞ伊達者よ」と賛辞した…。

 

第三十一回「義信事件(二)」


伊達勢は、肥前・名護屋城での足止めが長引いた。文禄二年(1593)四月、釜山に上陸するが、遠征軍は各地で敗北を喫していた。伊達勢も苦しく壮烈な戦闘が続いた。その頃、淀君が男子を産む。秀吉は鶴松の生まれ変りと喜び、遠征軍の撤退を決定する。

 

第三十二回「わが子幽閉」


政宗は、京で愛姫や娘・五郎八(いろは)と過ごしていた。文禄四年(1595)二月、蒲生氏郷が毒殺された。奥州三将を頼る秀次と親交を深めていたことが原因と噂された。三成のざん言に惑わされた秀吉は、秀次を高野山へ蟄居、最上義光の末娘・駒姫を処刑してしまう。

 

第三十三回「鬼美濃の死」


秀次事件で義光は謹慎、浅野長政は蟄居、政宗にも上洛の命が下った。政宗は、濡れ衣だと申し開きをするが、流罪の沙汰が下る。政宗は、無念の思いを愛姫に伝えた。そんなある夜、徳川屋敷の門前に立てられた奇怪な高札で、事態は一転する…。

 

第三十四回「上州攻め」


慶長元年(1596)十二月、伏見城の城普請が完成。政宗が従四位下右近衛権少将に叙せられた祝宴の席上で、秀吉は倒れ病の床につく。三成が秀吉亡き後の布石を打つ中、秀吉は秀頼への力添えを政宗に頼んだ。慶長三年(1598)夏、家康と利家に後を託し死去する。

 

第三十五回「盟約崩壊」


8月30日放送
秀吉の死後、三成と家康が、奥羽の盟主・政宗をめぐって天下の綱引きを始めた。そんな中、出奔していた成実が帰参の勧告に応じず再び失踪。政宗は、成実の居城の召し上げを決断。しかし、成実の妻子は城の引き渡しを拒んで自害してしまう…。

 

第三十六回「信長上洛」


事実上、最高権力者となった家康は、上杉討伐を決断。先陣を命じられた政宗は、千代(のちの仙台)に近い北ノ目城を本陣とし、上杉勢への猛攻撃を開始。京では、三成が反徳川勢を結集して挙兵…。天下分け目の関ヶ原の戦いが始まろうとしていた。

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第三十七回「駿河攻め」


上杉勢と戦っていた政宗が、東軍の勝利を知ったのは、関ヶ原の戦いが終わって半月後であった。三成が処刑された頃、奥羽の地でさらなる戦いを繰りひろげていた政宗は、家康と交わした百万石の念書を胸に、新しい城普請の夢を広げていた…。

 

第三十八回「小田原攻め」


慶長六年(1601)十月、伏見城に上洛した政宗は、帰国を固く禁じられた。慶長七年(1602)、家康は徳川体制を天下に誇示するために、江戸城の周りに大名屋敷をつくり始めた。夢にまで見た千代城を完成させた政宗だが、家康の命に服して江戸に下ることになる。

 

第三十九回「京の夢」


政宗は、千代を仙台と改めた。山形の最上家の悲運とは対照的に、伊達家では、五郎八と忠輝の婚礼。そして家康の一姫と虎菊丸の縁組みと興隆を極めた。政宗は、江戸では積極的に儀礼交換や外交につとめ、仙台では国作りとその経営に没頭した。

 

第四十回「暗闇の鬼り」


政宗は、宣教師ルイス・ソテロに仙台での布教を認める。狙いは、南蛮との交易であった。そんなある日、忠輝の家老・大久保長安から、天主教の入信帳という妖しげな連判状を見せられる…。政宗は家康から南蛮船建造の許しを得るが、連判状が露見する。

 

第四十一回「月夜の鏡」


南蛮船が完成し、政宗は仙台城で南蛮使節団を発表。乗組員は、ソテロや支倉常長ら総勢百八十六名。常長には、イスパニア艦隊を大坂に呼び寄せる密命が託された。慶長十八年(1613)九月、サン・ファン・バウティスタ号は政宗の夢を乗せて月ノ浦を出港した。

 

第四十二回「二重の死」


慶長十九年(1614)、政宗は、忠輝の越後高田城の城普請を見守り、家康の信用回復に努めていた。その頃、真田幸村ら武闘派が主導権を握った豊臣方が、家康の画策にのって戦闘態勢に入った…。十一月十九日、遂に大坂冬の陣の火蓋が切って落とされた。

 

第四十三回「八千年の春」


秀頼と淀君は、家康の講和条件を受け入れた。徳川方は、大坂城の堀を埋め始めた。家康は政宗の長男・秀宗を十万石の大名に取り立て、伊予宇和島を所領配分した。猫御前は不服であったが、宇和島藩十万石の創立のためと、海路、宇和島に向かう。

 

第四十四回「氏康の挽歌」


家康は秀頼に伊勢への転封を命じた。秀頼はこれを拒み、再び決戦を辞さぬ構えを見せた。徳川勢は、堺を手中に納め大坂への武器弾薬の補給路を断った。淀君は徳川勢が三万五千の大軍と知り、和睦の方法を探るが、時は遅く大坂夏の陣が始まった。

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第四十五回「京への道」


北条から氏康逝去の報告と和睦のための使者が訪れた。これで越後と北条の盟約は終わった。信玄は、まずは浜松城の徳川家康を攻め落とすことが上洛への近道と判断。三河、美濃、遠江の三国へ攻め入り東の壁をつくり、越前、近江など西の壁との間に信長を挟み込むという作戦があった。しかし軍議の最中に信玄の様態が悪化する。岐阜城の信長は、「あの男が動いたら、山をも動かしかねぬ」と、信玄の動きを封じようとする。

 

第四十六回「最後の出陣」


上杉謙信が西上野へ動いた。北条の応援要請に応じた信玄は、病を押して武田の陣頭指揮をとり碓氷峠を越えた。信玄は、謙信に最後の別れを告げるつもりであったのだ。病で信玄は動けぬと睨んでいた織田信長は「信玄、越後へ出陣」の知らせに、浅井、朝倉攻撃を強めた。これで織田勢も手薄になった。元亀3年(1572)10月3日、遂に信玄は2万5千の軍勢を率いて京の都を目指した。

 

第四十七回「三方ヶ原の戦い」


忠輝が手討ち覚悟で父・家康を見舞いに駿府へ赴く。家康は、会いたくても会えぬと涙を浮かべた。そして政宗に「天下の副将軍として、秀忠を助けて欲しい」と頼み、元和二年(1616)四月十七日、眠るようにこの世を去った。政宗は副将軍として采配を振るうことになる。

 

第四十八回「信玄倒れる」


三方ヶ原で大勝利をした信玄。もはや敵なしと誰もが思っていた。ところが信長と対峙していた朝倉勢が越前へ兵を引き揚げ始めた。信長は、将軍家と一時の和睦を図ることで、信玄の孤立を狙っていたのだ。一刻も早く京へ兵を進めなければならなくなった信玄は、三河・野田城を包囲。しかし信玄の様態は悪化、弟・信廉は影武者となって本陣に座った。守り強固な野田城の攻略には水抜の戦法をとった。この作戦に篭城を続けた野田城も遂に陥落した。

 

第四十九回「幻の都」


信玄の病は重く、もはや自力で立つことができなくなっていた。軍は信玄を気遣い、北の長篠城へ全軍を退いた。その動きを読めずに焦っていた織田信長は、「もし信玄が病に倒れているなら、天下はわしのものじゃ」と、素早く近江を平定。さらに京の都に火を放ち、二条城の将軍・義昭を包囲した。そんな中、長篠城に止まる信玄のもとに父・信虎が見舞いに訪れ、床に伏せた信玄を勇気づけた。しかし信廉は甲斐に兵を退くことを決断し伊那へ向かった。

 

最終回「神々のたそがれ」


死期を悟った信玄は、家臣たちに後を頼み「わが死を3年の間秘めよ。わが死を知れば信長をはじめ多くの敵が攻めてまいる。3年の間に新たなる甲斐をつくり守りを固めるのじゃ」と告げ、大きく眼を見開いたままこの世を去った。信廉は影武者として兵を甲斐に進め、馬場、高坂、山県らは伊那に残り、信玄を茶毘に伏せた。室町幕府を滅ぼした織田信長は、天下を手中におさめようとしていた。武田家は滅亡に向かって動き出していた。