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第45号

2012年、夏。果たして、音楽は無力だろうか? そんなことを問われたら、僕はこのアルバムをそっと差し出したいと思う。
寺尾紗穂『青い夜のさよなら』について。

寺尾紗穂。はじめて彼女の歌に直接触れたときの特別な感触は、実に忘れがたいものだった。水面に落ちた一滴が、生々しく美しい波紋を形成し、どこまでも広がっていくようなピアノとボーカルの連なりに、どうしようもなく揺さぶられた。彼女の歌は、時に誰にも気づかれないまま損なわれていった人生の残像を、人肌の体温で照らし、蘇生させるような強さを見せる。彼女の眼差しは、少女の瞳にまっすぐ見つめられるような透徹さと、母に抱かれるような優しさと厳しさが同居している。そんな寺尾紗穂の歌が、意欲的なチャレンジを見せているのが、最新作『青い夜のさよなら』だ。

 

キセル、CRYSTAL、大森琢磨、Kenmochi Hidefumi、DARTHREIDER、イルリメ、橋本和昌、七尾旅人という八組のアレンジャー/客演を招いている本作。いわゆるリミックス的な趣のものもあるが、過剰な装飾が施されているという感じは一切なく、どの楽曲も彼女の歌を新たな地平に連れ出すような奥行きが与えられている。

 

そのなかにあって、際立った存在感を放ちながら、寺尾紗穂の核心を新たな角度で浮き彫りにしているのが、M7「私は知らない」とM8「はねたハネタ」である。前者は寺尾が2010年の時点で原発作業員の実像を描いていた曲に、DARTHREIDERが震災以降を踏まえて綴ったラップとアレンジを組み合わせた。後者は同じくDARTHREIDERが独立した形で発表していた、交通事故をきっかけに出会った若者とホームレスの関係をユーモラスにストーリーテリングした詩に、寺尾が曲をつけ、それをイルリメがアレンジしたもの。この二曲は語る。“さあ、想像しよう”と。この国の現在地を、そこに立っている僕やあなたや彼や彼女の人生と未来を。私たちは、市井の民だ。それ以上でも、以下でもない。寺尾紗穂の歌は、そこから逸脱しない尊さを静かに体現する。

 

2012年、夏。果たして、音楽は無力だろうか? そんなことを問われたら、僕はこのアルバムをそっと差し出したいと思う。

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【ライター紹介】
三宅 正一~取材にライブに子育てに。音楽を中心にせわしない日々を送るフリーライター~
1978年生まれ、東京都出身。雑誌「SWITCH」、「EYESCREAM」の編集を経て、2005年にフリーライターとしての活動を開始。音楽を中心に、カルチャー全般の執筆を手がけている。