私のベストワン ★★★★★
投稿者:たけちゃん 2005-06-06
男と女の腐れ縁を描いて,これ程の映画は世界にもない 主役二人の演技も半端じゃない 黒澤や小津だけじゃない日本映画の底力

[ネタバレ]腐れ縁の愛 ☆☆☆☆☆
投稿者:kplanning5 2010年8月6日
最近は「腐れ縁」とか、「(男に)棄てられる」、ましてその末に「心中する」などということはあまり聞かなくなった。
いまや、うだつの上がらない男といつまでも付き合っている女などいないし、男のほうがさっさと棄てられる時代だ。
22歳の美しく清楚な女性と、風変わりだが魅力的な、妻を持つ男とのロマンスが、戦時中の仏印で生まれるが、内地に引き揚げてみれば事情は変わっていた。
戦後の闇市の路地裏で、妻とも別れられず事業もうまくいかない男に、女は延々と愚痴を並べたてる。そういう女も仕事がなくパンパンにまで落ちぶれていく。もう二人が付き合っていてよいことなどなにもない。そのことはお互いよくわかっているのに、いつの間にかまた会っている。当時は喫茶店などない時代なのだろう。外で話すとなれば、二人でその辺を歩きながらということになる。こんなシーンが何度もあるが、そのとき流れてくる奇妙な音楽は、なんとも見ているものを不安な気持ちにさせることか。
もともと自分が異性にとって魅力があるということを、本能的に知っているこの男は、二人で行った温泉地でよせばいいのに亭主のいる若い女に手を出す。
現代の女性ならばここまでこなくても、とうの昔にこんな男とは別れているだろう。ましてやそのあと、この男との間にできた子供を堕ろすことになるのである。
この女も義理の兄に厄介になることで、いっときは生活の安定を見たが、またそこへ妻を亡くした男が葬式費用を借りに来る。もう見ちゃいられない。
そのあとまた温泉場で死ぬとか死なないとかの話だ。お互い優しい言葉をかけるでもなし、いたわりあうわけでもない。特に男は新しい赴任先が決まってそこで再出発するつもりなのだ。
そこは屋久島なのである。女はついて行くという。そしてとうとう途中で病に倒れてしまう。しかしそれでも無理をおして船に乗り、四六時中雨の降る屋久島まで来てしまう…
名作 ☆☆☆☆☆
投稿者:☆Marion☆ 2009年11月2日
原作どおりで、とても好きな映画です。
岡田茉莉子の登場シーンがなんとも言えない。
入浴シーンはぞくっとするほど美しい。
視線の使いようとか。
ヒロインのゆき子がそこまで真剣に死ぬことを思いつめていたんだ、と、今回気づいた。求めた結末は与えられる。
富岡はデカダンスが服を着て歩いているよう。
周囲の女たちはすべて命を落としてしまっている。
それでも彼は飄々と、時にフェロモンを撒き散らして生きていくんだろうな。
加東大介はここでもとことん善人の役でしたね。
なんか見ていて和める顔立ちしてるし。
デコちゃんの自伝で、コテコテの恋愛映画と書いてありましたが、
その通りです。
映画を見た満足感でいっぱいになります。
オトナの映画 ☆☆☆☆☆
投稿者:彩雲飛燕 2009年5月25日
主演の高峰秀子の名エッセイ「私の渡世日記」によると、この「浮雲」は公開当時「大当たり」だったのだそうだ。それに比べ「放浪記」は賛否両論渦巻き、特に「林芙美子はあんな人じゃなかった」といった旨の批判が多く、高峰自身が、そうした少々見当外れの言説に対して、わざわざ新聞紙上に反論を発表したそうである。成瀬巳喜男も「浮雲」より「放浪記」の方に、一方ならぬ想い入れがあったようだ。劇場公開から半世紀を過ぎ、時間の濾過器をこの二作品が潜り抜けた時、映画の完成度としては、「放浪記」の方がいささか優れているという事が、明確になったのではないかと思う。しかし「浮雲」も、紛れも無く日本映画の傑作の一つである。そしてこれは「オトナ」の映画である。「私の渡世日記」には「わたしの唯一の恋愛映画」と記されている。「恋愛」というには、あまりに陰々とした、やりきれないほど暗く悲しい物語であるけれど、高峰秀子の演ずる、最後まで男に疑いの眼を向けつつも、ひたすら恋愛に殉じていく女の姿が、二度と会うことの叶わぬ別れた恋人の夢を見た後にも似て、異様に胸に迫る。「愛する」というには、あまりに愚かかも知れない。だがそこには紛う方なきカタルシスが存在するのだ。
[ネタバレ]Things Ain"t What They Used To Be (昔はよかったね) ★★★★☆
投稿者:kobarou 2009年3月7日
かれらふたりは戦中、植民地、南仏印でいいおもいをした。本土ではありえない、異国情緒の情熱的な夢のような時間だった。それは敗戦でいっきに消滅してしまった。ただ甘美な記憶だけが残った。
戦後、女は男にすがる。男もずるずるとひきずる。それは植民地での甘美な記憶ゆえだ。現実に関係をかさねればかさねるほどその記憶は減摩し、現実のみじめったらしさをおもいしらされる。ゆえにますます甘美な記憶の断片にすがり溺れる。不決断になじりあいの関係をつづける。だがこの投影こそが幻滅をうんでいるのだ。ロマンティックであろうとするとリアリスティックにおちいり、それがゆえにロマンティックをおいもとめる。むろんこの負のスパイラルをふたりはわかっている。わかっているけどやめることができない。かれらはもう甘美な記憶をすり減らし、燃やし尽くすことでしか、みすぼらしい現世の生に輝きをみることができないのだ。たとえそれがデカダンスなものであろうとも、輝きがなければ食って寝るだけだ。セックスするだけだ。まあそれもいいかもしれない。
落魄である南の果て、屋久島への男の赴任と女の同行は、どうじに記憶の植民地、南仏印への回帰である。ふたりは記憶を最後の最後まで使いきろうとする。記憶が灰となったとき、ふたりの関係も終わる。正確にいえば、解かれたのだ。男は夢の燃焼から取り残され、女だけが殉じる。ふたりはロマンティックな道行きをはたしたのではない。かぎりなくロマンティックでありながら、どうじに容赦なくリアリスティックなこの関係が、最後の最後まで貫ききとおされたのだといえる。女はとうじの日本国の最果て屋久島から、さらにもう消滅した植民地の、記憶ゼロの彼方へと旅だった。そして甘美な彼方へと彷徨いつづけるだろう。だから、高峰秀子の死に顔は俗悪な媚態もうせて、たとえようもなく美しく輝く。男はみすぼらしく、茫然と見送るしかない。
[ネタバレ]いかにも普遍性がなく、共感するのは無理でしょう。。。 ★★☆☆☆
投稿者:○△□ 2009年3月4日
そういう時代だったと言われてしまえばそれまでですが、とにかくスカッとしたところが微塵もない映画。
人間のすばらしさ、善さ、というものは、ほとんどまったく描かれていない。しかし、じゃあ、観客として、自分自身の人生はいったいどれだけきれいなんだよ、と自問すれば、もちろん、人間は浅はかで、わかっていてもやめられず、流されもし、怠惰でもあり、出会ったその日に深みにはまるような男女関係もある。たしかに、人間とはこんな生きもの、なのだけれど・・・。
それを映画として、あるいは小説として、自腹を切って時間もかけて観たいか、読みたいか、と言われると・・・小生は「NO」なのでありました。
正直言って、後味の悪いことこの上ない映画でした。
また、高峰秀子が、清楚で知的な女性から、やつれた引き揚げ者、パンパン、教祖さまの囲われ者、と、七変化するのだが、、、、この大袈裟な演じっぷりがかえってこのヒロインの人格の統一性を損なっているような気がした。
もちろん、これもまた「女っていうのはそういうこわい生きもの」的に観れば、当たってはいるのだが――。
結局、どの登場人物にも、こちらの心情を託せない。応援したくもならない。頑張って、と言いたくならないのである。
同じ監督の『流れる』は、何度でもみたくなる生の逞しさがあるし、ある種の普遍性があるが、こちらは時代的背景を考えても、共感するのはもはや難しいと感じた。
今現在の時間を大切にする人には、あまりおすすめしない。
★☆(1.5)


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